クリームがかった白に華麗な模様が描かれてるものもあれば、
真っ黒で質実剛健な雰囲気の陶器もある薩摩焼。
「●●焼」と呼ばれる陶器は、一般的には、共通の特徴があるのに、
薩摩焼は「白」と「黒」と正反対の種類があるのです。
いったい、どんな歴史をたどって、このような2種類の
薩摩焼ができたのでしょうか?
気になったので、調べてみました。
そもそも、薩摩焼とは?
文字通り、鹿児島県内で焼かれる陶磁器のことです。
「白もん」と呼ばれる白地に多彩で華やかな色絵が描かれた
白薩摩と
「黒もん」と呼ばれる大衆向けの食器類の黒薩摩と
二種類があります。
白薩摩
白薩摩は、藩の御用釜である苗代川窯で焼かれていた陶器。
苗代川は、慶長の役の際、朝鮮半島より連行されてきた
朝鮮人の陶工の集落が置かれた場所で、
薩摩藩の御用窯となりました。
現在も薩摩焼の工房が点在しています。
白薩摩は、白い陶土で丹精に成形して
透明釉を掛けたもので、
表面の細かい貫入が特徴の一つです。
江戸時代には、白薩摩は藩主専用の焼物で、
主に幕府や他の藩への贈答品として生産されていました
幕末に、薩摩藩はパリ万博に幕府とは別に単独で出展、
薩摩焼も展示しました。
薩摩焼の豪華絢爛な美しさは西洋人の好みに適い、
芸術性の高い作品として絶賛を浴び、以降、
多くの作品が海外に輸出されていきました。
黒薩摩
黒薩摩は、黒くて素朴な焼き物です。
薩摩の土は、シラス土壌で鉄分を多く含んでいるため、
真っ黒い焼き物が出来上がるのです。
その鉄分が多い土を高温で焼き締めるため、
頑丈な仕上がりが特徴。
大衆用の日用雑器として、親しまれてきました。
焼酎をお燗するときに使う「黒ヂョカ」と呼ばれる土瓶は、
焼酎ブームとともに、居酒屋などで目にすることが増えましたね。
白薩摩とは異なり、素朴で親しみのある陶器です。
小説にもなった陶工沈壽官
司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」を読まれた方も
いらっしゃるのでは?
これは、薩摩焼窯元として代々続く窯元の14代沈壽官のことを
描いた小説です。
沈家では、代々「沈寿官」の名を継承しており、現在は15代目です。
慶長の役の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、
初代がいました。
沈家の初代ほか、朝鮮の陶工たちが、
現代まで続く「薩摩焼」を造り出しました。
12代壽官は、明治の薩摩焼の振興に貢献し、
世界中で評価される作品を手がけた人です。
明治6年には、オーストリアのウィーン万博に
約180cmの大きな一対の花瓶や、
その他の作品を発表し、絶賛を浴びました。
明治26年のシカゴ万博で銅賞、
明治33年のパリ万博でも銅賞を獲得しました。
13代は、韓国併合から太平洋戦争の時代
朝鮮人の先祖を持つ陶工にとっては偏見と差別を受けるという
非常に厳しい時代に、家業を守り続けました。
この厳しい時代に少年期を過ごし、13代の後を継いだ14代が
司馬遼太郎の小説のモデルになったのです。
幕末に始まった磯御庭焼
磯御庭焼は、薩摩焼の窯の一つで、
幕末の薩摩藩主の島津斉彬が作りました。
斉彬は藩主になると殖産興業に努めました。
1853年には、磯別邸内に集成館を創設して、
洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、
地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの試験事業を興しました。
この際、陶器の釉法などの改善と磁器の創製を計画し、
自分の発明も加えて各種の陶磁器を製造させました。
これが、磯御庭焼と呼ばれるものです。
しかし、磯御庭焼は、斉彬の後、廃れてしまいますが、
その後、職人たちが何度も復興に努めてきました。
尚、「旧集成館」の機械工場は、
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を
構成するとして、2015年に世界遺産に登録されました。
磯御庭焼も、明治日本の産業革命の一環だったといえるでしょう。
コメント