「うちには茶室があるのよ。」と聴くと、
どのくらいの広さの部屋を思い浮かべますか?
アンケートを取れば、「4畳半」という答えが
一番多いのではないかと思います。
茶室の間取りは4畳半に落ち着いてきたのは、
どのような理由があるのでしょうか?
室町時代の書院造が茶室のスタート
室町時代、お茶は、連歌や和歌の会の際に
食事や酒とともに参加者に振る舞われたものでした。
当時の連歌の会の様子を描いた絵には、別室で茶を点てて、
参加者の元に運んでいる様子が描かれています。
室町時代に茶を飲んだのは、連歌や和歌の会が催され、
中国から輸入した絵画や茶道具など
高価な美術品を飾り付ける棚や押板をもった書院造の部屋でした。
四畳半茶室の始まりは銀閣寺の同仁斎?
室町時代後期になると、畳を敷きつめた小座敷に人が集まり、
目の前で点てられる茶を飲むという形式が生れました。
室町幕府8代将軍足利義政は、京都の東山山荘、
今の銀閣寺に、持仏堂として東求堂を作りました。
東求堂は、現在国宝に指定されています。
その内の一部屋、同仁斎は、4畳半で炉が切られ、
湯を沸かしてお茶を点て、その場で茶を飲むというスタイルに
適った部屋であり、茶室の始まりと伝えられてきました。
同仁斎は付書院と違い棚を備えており、
茶道具などが置き合わされて飾られていたとも
言われています。
但し、同仁斎は客を招いて茶を喫する茶室というよりも、
義政の書斎としての性格が強く
茶の湯を主目的とする茶室とは異なるという説もあります。
茶室の手本は珠光と紹鴎の座敷
利休の時代以降、茶座敷の手本と考えられたのは
村田珠光と武野紹鴎の座敷でした。
珠光の座敷は8畳に一間の床の広さでした。
その後、客の人数を制限しつつ、適度な間で座れる広さとして、
6畳が理想と考えられるようになります。
紹鴎の茶室は6畳に一間の床の広さでした。
但し、珠光も紹鴎も4畳半の茶室も持っていました。
8畳、6畳の茶室が客をもてなす為の座敷であるのに対して、
4畳半は主人のプライベートの空間と考えていたようです。
利休以降の茶室
応仁の乱で武家の力が衰退して以降、
茶の湯を盛んに行ったのは、千利休ら堺の商人たちでした。
彼らが好んだ茶室が市中の山居。
忙しい生活を営む都市生活の中でも、
静かに落ち着いて交友できる環境を茶室に求めていきました。
茶室はより小さくなり、自然の素材を活用し、
草庵風の侘びた風情の座敷が好まれるようになりました。
更に利休は、茶室を極限まで狭めて独自の世界を確立することを目指します。
同時代の茶人たちも、4畳半より狭い小間の茶室を好むようになり、
限られた空間の中で様々な工夫を凝らすようになりました。
4畳半の意味
利休が建てた大徳寺門前の茶室不審庵は、
4畳半の茶室だったと知られています。
また、利休は、聚楽屋敷にも4畳半の茶室を持っていました。
4畳半の茶室が室町末期から現代まで好まれて使われた理由は、
おそらく、4畳半という広さが、窮屈でもなく、
豪華に飾り立てる必要もない、
丁度よい広さだったからだと思うのです。
利休の好む2畳、3畳の茶室は、亭主と客の距離が近く、
非常に緊張した関係を生み出します。
一方、6畳、8畳の広間では、亭主と客が遠くなり、
声を少し張り上げないと話がしづらいという距離になります。
茶道では、気の合う人が集い、互いに雰囲気を読みながら、
場を作り上げる「一座建立」が理想と言われています
それを実行するには、適度な距離間を保てる4畳半が
適当だったのではないでしょうか。
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