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茶道の歴史について|年表&人物でわかりやすく簡単に解説!千利休は何をした人?

茶道

茶道の歴史茶道をやっていても、先生方からその歴史を教わることはあまりありません。しかし海外から来た方など、茶道を知らない人に説明を求められた時には、カッコ良く説明したいですよね。

今回は茶道をお稽古していても教わることの少ない「茶道の歴史」を、詳しくご紹介していきます。茶道は500年という非常に長い歴史を持っていますが、一つ一つが積み重なって、今の形になっています。

▼この記事に書いてること

歴史が苦手だった方も大丈夫ですので、ご安心ください。人物や歴史の出来事は表にまとめて、一つずつ丁寧に説明しています。

茶道の歴史年表

茶道が伝統的なものだというのは、皆さん知っているでしょう。

しかしどれくらい古くて、どのような歴史を辿ってきたかは、あまり知られていません。

茶道は主に武家社会と大きく関わりを持ってきました。それゆえに、武家らしい作法や理論を持っています。

まずはざっくりと、茶道の歴史を見てみましょう。

時代茶道の歴史日本の歴史
15世紀後半村田珠光がわび茶を創る室町幕府スタート
1587年北野大茶会織田信長殺害
1591年千利休切腹豊臣秀吉の天下統一
1654年煎茶が日本に到来徳川幕府全盛期
1874年国産紅茶が活発になる民撰議院設立建白書
1916年茶の輸出量が30,102トン寺内内閣成立
1975年荒茶の生産量が戦後最大高度経済成長終わる
1985年缶入り烏龍茶の発売バブル景気始まる
1990年ペットボトル緑茶の発売バブル景気終わる

茶道の歴史はいつから?簡単に解説

結局茶道の歴史はいつスタートをしたか?ということについて、簡単に解説していきます。

茶道とは、お茶によってお客様をもてなす行為です。

人間にとって普遍的な文化ではありますが「茶道」という形になったのは、鎌倉時代後半からです。

茶道というと「千利休」をイメージしがちですが、あくまでも彼は茶道を世に広めたのであって、茶道を創ったわけではありません。

茶道の始まりは「村田珠光」(むらた じゅこう)という人物になります。かれは原点に立ち返るという活動を始めて「わび茶」というものを創りあげました。この「わび茶」を習得し、さらに発展させたのが「武野紹鴎」(たけの じょうおう)になります。千利休は武野紹鴎に茶道を習い、世に広めていきました。

茶道の歴史 有名な人物は?

茶道には既に説明した3人以外にも、様々な人が関わっています。

ここでは今日の茶道を語る上で特に欠かせない人物たちを、ご紹介していきます。

明恵上人

鎌倉時代のお坊さんです。栄西禅師から「茶の実」を託され、京都に植えました。茶を飲むメリットを示した「茶の十徳」を提唱しました。

古田織部

引用元:古田重然 – Wikipedia

千利休を師匠とする茶人です。離宮の弟子の中でも優秀とされる「利休七哲」のひとりになります。特に「武家社会」と茶道の関わりを深く考えて「織部好み」という、独自の流派を確立しました。大阪夏の陣にて切腹しました。

小堀遠州

古田織部を師匠とする茶人です。作庭、書道といったジャンルにも秀でており、武士としても大きな業績を残しました。古田織部同様に「遠州好み」と呼ばれるスタイルを確立し、現在でも「遠州流」という流派が残されています。

売茶翁

煎茶道の創始者です。江戸時代中期の茶道の様子を嘆き、京都市内に「通仙亭」という庵を構えました。通仙亭には様々な文化人や書道家、僧侶などが訪れ、問答を繰り返しました。中でも有名な人物に伊藤若冲や池大雅とも交流がありました。

永谷宗円

今の「永谷園」の創業者です。長い年月をかけて「青製煎茶製法」という、現在の日本茶を作る技術を考案しました。

茶道の歴史は千利休から始まった?

茶道の原型を創ったのは「村田珠光」です。しかし当時はそこまで世間一般に広まっておらず、一部の文化人が楽しんでいるだけでした。

村田珠光の創った「わび茶」をさらに変化させ、社会に広めたのが「千利休」です。千利休にわび茶を教わった当時の文化人や武士たちは、大きな影響を受けていきます。利休から学んだわび茶から、さらに独自のスタイルを創りあげたのが「古田織部」「小堀遠州」「上田宗箇」(うえだ そうこ)「金森宗和」(かなもり そうわ)といった人物です。

彼らがいずれも「武士」という身分で、千利休の死後は「武家社会」と茶道の繋がりが深くなっています。

茶道流派の歴史は?

茶道全体の歴史は村田珠光や千利休からのスタートですが、現在では様々な流派が存在します。

流派は有名な茶人が師匠や、既存の流派から独立をするときに立ち上げてきたのが一般的です。近代以降も新たな流派が創られ続けましたが、現代ではあまり新しい流派が創られることは、あまり無いようです。

上で解説した、織部や遠州、宗箇といった人物の美意識やスタイルは、一つの主要な流派として現代にも残されています。

裏千家の歴史

引用元:裏千家今日庵 | まちじゅうお稽古情報 | 京都文化力プロジェクト 2016-2020

茶道で一番人口が多いのが「裏千家」です。茶道人口の半数以上「100万人」が、裏千家に所属しているとも言われています。

裏千家の歴史は、千利休の孫「千宗旦」から始まります。宗旦が家を次の世代に相続した時、自宅の敷地内に別の茶室を作り隠居しました。さらにその茶室を自分の子供に譲り、裏千家が誕生しました。

「千家」という家の「裏」にあったことから、今では裏千家と呼ばれています。

表千家の歴史

裏千家に次いで人口が多い流派が「表千家」です。宗旦が相続した「不審庵」は現在でも、表千家の代名詞になっています。裏千家や武者小路千家と合わせた「三千家」(さんぜんけ)の中では、本家になります。

「千家」の表にあることから、表千家と呼ばれています。ちなみに武者小路千家は「武者小路」という道に面していることから、その名が付けられています。

茶道の道具の歴史について

茶道によってお客様をもてなすには「茶道具」が必須のアイテムです。茶道の歴史と一緒に「茶道具」の歴史も発展してきました。

茶道具には「茶碗」「釜」「棚」「花入」「茶入」といった、様々なアイテムがありますが、その中でも特に重宝されるのが「茶碗」になります。戦国時代には「茶碗」が武士の間で、大流行しました。戦に勝った場合は、茶碗や茶入が褒美として与えられたほどです。

利休は「楽茶碗」を創りあげ、同様に織部は「織部焼」という焼き物のスタイルを確立しました。特に楽茶碗は最高峰の茶碗と呼ばれており、何十万という価格になります。

千利休の時代には「千家十職」という、十種類の職人集団が確立しました。彼らはそれぞれ茶碗や釜、塗り物といった茶道に欠かせない差道具を作る「専門職人」で、この職人は代々技術を伝承し、今でも三千家お抱えの「職人集団」と呼ばれています。

①茶碗の歴史

利休以前は「天目」(てんもく)と呼ばれる、中国の茶碗が使われていました。天目は現代に製法の技術が残されておらず、日本にも数点しか残っていません。

そんな中日本独自の茶道茶碗を作ったのが、千利休です。利休は「侘び寂び」という美意識を、天目や朝鮮半島の茶碗「高麗茶碗」とは別のものとして、使い始めます。

当時の武士たちは、利休の茶碗をとても重宝しました。中でも「楽茶碗」が一番有名で、高価なものとされています。ろくろを使わず、手でこねて作られる楽茶碗は、手の跡が付きます。これは利休の「もてなし」の精神にも通じるところがあると言えるでしょう。

②和菓子の歴史

そもそも和菓子の由来は「果子」と書かれていました。当時は砂糖が貴重だったこともあり、果物や木の実がお供え物とされて珍重されていました。

茶道が発達し始めたときには、現代のような「和菓子」は使われておらず、煮物やあわびが「お茶請け」として使用されていました。

現在の和菓子の原型は江戸時代に見られます。干菓子や飴といったものが作られるようになり、庶民も甘いお菓子を楽しむようになっていきます。

③懐石の歴史

現代で「お茶会」と言うと、薄茶(うすちゃ)と和菓子を頂くスタイルが一般的ですが、これは茶事(ちゃじ)と呼ばれるものを簡略化したものです。

茶事では、薄茶と和菓子に加えて、懐石料理、濃茶(こいちゃ)、炭点前といったものがあります。よく時代劇などで見るお茶を回し飲む作法は濃茶の作法です。

懐石料理は禅の影響を受けていることから、修行の一貫とされとても質素でありながら、工夫された料理です。着物の懐に「温石」(おんじゃく)と呼ばれる温めた石を入れて、飢えを耐えたことから「懐石」と呼ばれています。そのため披露宴などで出される「会席」とは異なる料理になります。

茶道における懐石料理も千利休が始めました。質素でありながら、季節の食材を使用し、料理の一品一品、頂く順番にまで意味があります。

日本文化の茶道の歴史

日本文化の中で茶道は、中核を担っているものです。茶道と言われて思い浮かぶのは「京都」ですが、小京都と呼ばれる「金沢」にも茶道との結びつきが非常に強く残っています。

また茶道の原型を遡ると「中国」に繋がりますが、お隣の「韓国」も日本と同様に中国の影響を受け、独自のお茶文化があります。

土地京都金沢韓国
名前茶道茶道茶礼
ルーツ中国京都中国
現代残っている残っている曖昧さがある

京都茶道の歴史

京都は長い間政治の中心都市であったことから、自ずと茶道以外の日本文化も色濃く残っています。

村田珠光によってわび茶が創られましたが、それ以前では「明恵上人」という僧侶によって、京都でのお茶栽培が活発になりました。

金沢茶道の歴史

金沢は現代でも茶道文化が残されていますが、そのルーツは「前田家」にあります。

加賀藩の藩主である「前田利家」「二代目前田利長」が利休に気に入られるほどであり、特に宗旦の息子である「仙叟」(せんそう)も、茶道を普及するために訪れています。

特に森八というお菓子屋で作られている「長生殿」(ちょうせいでん)は茶道用のお菓子としても有名で、加賀藩三代目当主「前田利常」(としつね)が考案し、お菓子のデザインは小堀遠州が行ったとされています。

特に金沢にゆかりのある流派に裏千家や、宗和流があります。

韓国茶道の歴史

韓国にも茶道に近いお茶文化があるとされており「茶礼」(タレ)と呼ばれています。

しかしこれも日本と同様に、仏教の文化を受けています。朝鮮王朝の時代になると、国教を「儒教」(じゅきょう)に定めたため、茶礼文化は消えてしまいました。

現在では少しだけ茶礼文化のようなものが残っていますが、日本ほど浸透はしていません。

茶道の歴史の本はある?

引用元:岡倉天心「アジアは一つ」は今も遠く:日経ビジネス電子版

現在でも茶道の点前をまとめた教本や、茶道の歴史が詳しく書かれている本は多数存在します。

しかし茶道に関する本の中で一番有名なのが岡倉天心(おかくら てんしん)が書いた『茶の本』になります。

近代に入り欧米の文化が、日本に入ってきました。それまで残っていた日本の伝統文化は窮地に立たされていましたが、総合芸術でもある茶道を欧米に紹介するべく書かれたのが『茶の本』です。

茶道の美意識が、とても丁寧に書かれています。少し難しい内容が多いですが、茶道を極めたい方には特にお勧めです。

まとめ

茶道の歴史を隅々まで、深堀してお届けしました。

  • 流派の歴史
  • 茶人の歴史
  • 各地の茶道の歴史

茶道は総合芸術と呼ばれていることから、華道や香道とも深い繋がりがあります。今回ご紹介した内容以外にもお伝えできることが、まだまだ沢山あります。

それくらい深い文化だからこそ、500年経過しても残り続けているのでしょう。

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