松尾芭蕉と言えば、誰もが一度はその名前を耳にしたことがあるほど有名な俳人。
「俳聖」とも呼ばれ、れまで言葉遊びでしかなかった俳句を、後世に受け継がれる美しい文芸に高めた人物です。
しかし、松尾芭蕉がどのような人生を送ったのか、また、どのような句があるのか、なかなか出てきませんよね。
今回は、松尾芭蕉の人物像や詠んだ句についてご紹介します。
記事にはこのようなことが書いてあり、松尾芭蕉について深く学べますよ。
情景美と心情美が交わる世界に、ぜひ触れてみてくださいね。
松尾芭蕉とは?
引用元:松尾芭蕉 – Wikipedia
松尾芭蕉は、日本史上最高の俳人(俳諧師)の一人で「俳聖(特に優れた俳人のこと)」とも呼ばれています。
1644年(寛永21年・正保元年)に現在の三重県伊賀市に生まれた芭蕉は、幼い頃に俳諧に興味を持ち、先輩俳人に手ほどきを受けていました。
10代の後半に藤堂藩伊賀付侍大将藤堂良忠公に奉公に出て、俳句好きであった良忠公と共に俳句を学びました。
芭蕉が23歳の時に良忠公がなくなり、その時に奉公を辞しています。
その後、しばらくの間は明確な記述が残されていませんが、伊賀を本拠地としながら、俳句や文学を学んでいたと考えられています。
29歳の時に俳諧発句合『貝おほひ』を上野天満宮へ奉納し、芭蕉は江戸に旅立ちました。
芭蕉の有名な紀行文および俳句集として「奥の細道」があり、折り返し地点に当たる平泉には1689年(元禄2年)に訪れています。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句は平泉で詠まれた句です。
かつては奥州藤原氏により栄えていた平泉も、芭蕉が見たときは草ばかり。
芭蕉は、奥州藤原氏の栄枯衰退に思いを馳せ涙を流したと記されています。
その後も各地を旅しながら俳句を詠み、1694年11月28日(元禄7年10月12日)、大阪で病に倒れ51歳で生涯を閉じました。
松尾芭蕉が作った俳句の特徴・数は?
芭蕉の俳句は、情景の美や人生観が盛り込まれているのが特徴です。
「さび」・「しおり」・「細み」・「軽み」を重んじ、元々は言葉遊びであった俳諧を芸術性の高い句にした、芭蕉ならではですね。
さび | 「寂び」と書き、渋さと寂しさの融合美 古さや静けさ、枯れたものから趣を感じること |
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しおり | 感情表現用語を用いることなく一句に具現され 余情として「あはれ」を表現すること |
細み | 作者の心が対照的にかすかに入り込んで 捉えられる美や、微細微妙に表現される心境 |
軽み | 芭蕉が晩年に到達した体型の理念 身近にありふれている題材の中に新しい美を発見し、 正直で取り繕わずサラリと表現すること |
また、芭蕉が生涯に作った句は確認されている物だけで982句。
その他にも、芭蕉が書いたと思われますが確認が取れないものが数百あります。
松尾芭蕉の幼名は?
芭蕉の幼名は金作で、成長してから甚七郎、藤七郎、忠右衛門を名乗りました。
本名は、松尾忠右衛門宗房(むねひさ)です。
俳号(俳句を作るときに使う名前)では、はじめは本名を音読みして宗房(そうぼう)と名乗っていました。
29歳の時に「桃青(とうせい)」、その後「芭蕉(はせを)」と名乗ります。
37歳の時に草庵を結んだ際に贈られた芭蕉の株が大いに茂り、この草庵が「芭蕉庵」と呼ばれたことが「芭蕉」の由来だと言われています。
芭蕉自身も、この俳号を好んで使用していました。
「芭蕉庵」は天和2年(1682年)に消失しましたが、弟子達の援助もあり9カ月後に再建されています。
松尾芭蕉の俳句・奥の細道とは?
「奥の細道」は、松尾芭蕉の代表作とも言える紀行文および俳句集です。
東北や北陸を巡り、現在の岐阜県大垣市に到着するまで、150日に及ぶ旅のことや各地で詠んだ約50句が綴られています。
旅の目的は、平安時代の歌人能因や、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士であり僧侶、歌人でもあった西行の足跡を訪ねること。
歌枕(和歌で多く詠まれる名所)や旧跡を探り、個人の詩心に触れようとしました。
山形県に位置する立石寺は「山寺」とも呼ばれ、「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」が詠まれた場所として有名です。
1,015段ある石段の中腹には、この句が刻まれている「せみ塚」があり、ここで芭蕉は句を詠みました。
また、旅をする中で芭蕉は常に変化するものと永遠に変化しない物事の本質を知り、この両面から俳句の本質捉えようとする「不易流行」説を形成。
そして、旅をした土地の俳人達との交流は「奥の細道」に大きな影響をもたらしました。
松尾芭蕉の俳句で有名なのは?【解説】
「俳聖」と呼ばれるだけあり、松尾芭蕉はさまざまな有名な句を詠みました。
その中の一つ、「五月雨を 集めてはやし 最上川」について解説します。
「奥の細道」にもある有名な句ですので、意味や作られた背景をぜひご覧くださいね。
五月雨を集めてはやし最上川
「ずっと降り続く五月雨(梅雨時の雨)を集めたように、なんて最上川の流れは速くてすさまじいのだろう」
最上川は、日本断裁急流の一つにも挙げられているほどに流れの速いことで有名な河川。
芭蕉は梅雨時に最上川の川下りを体験し、その様子を詠んだ句です。
しかし、この句ははじめ「五月雨を 集めて涼し 最上川」でした。
芭蕉が旅した年の東北・北陸地方は尋常ではない暑さで、芭蕉も暑さに口を閉ざしていたほど。
そこに吹いた川風の涼しさを感じて「涼しい」と詠みましたが、その後に川下りを体験し、「はやし」に変わりました。
今でも、山形県大石田では『五月雨を 集めて涼し 最上川』の方がよく知られています。
松尾芭蕉の俳句一覧|代表作ベスト10【季語別】
松尾芭蕉の句は、どれも素晴らしいものばかり。
誰もが一度は耳にしたことがあると言っても、過言ではありません。
その中から、とても有名なものをいくつかご紹介しますので、ぜひご覧くださいね。
松尾芭蕉・春の俳句
鶯や 柳のうしろ 藪の前
「鶯が柳の後ろや藪の前へと飛び移って、しきりに鳴きかわしているなあ。」
鶯が賑やかに鳴きながら飛び移っている様子が目に浮かびますね。
山路来て 何やらゆかし すみれ草
「春の山路を歩いていると、道ばたにひっそりと咲くすみれを見つけた。
こんな所にすみれが咲いているのだと、可愛さに理屈もなく心引かれるものだ」
穏やかな気候と、春の季語であるすみれのかわいらしさが俳句から伝わります。
草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家
「長年住み慣れてきたこのおんぼろな家も、違う人が住むときが来た。
新しい家主が雛人形を飾って、華やかになることもあるだろう。」
家を去りゆく主が次に住む人の暮らしを思う、懐かしさや寂しさ、そして期待が込められた句です。
松尾芭蕉・夏の俳句
閑かさや 岩にしみいる 蝉の声
「岩に染みいるように蝉が鳴いている。なんて静かなことなのだろう。」
蝉の声といえばやかましいものですが、「岩に染みいるほどに」閑静な山奥で詠まれた句であることがわかります。
此のあたり 目に見ゆるものは 皆涼し
「川のほとりにある水楼に登って眺める景色は素晴らしく、見えるものがすべて涼しげである」
季語は「涼し」で、夏の暑さと風の涼しさを言い表しています。
松尾芭蕉・秋の俳句
名月や 池をめぐりて 夜もすがら
「名月を干渉しながら池の周りを巡っていたら、いつのまにか夜が明けてしまったよ」
中秋の名月が美しく、時間を忘れて眺めている様子がわかりますね。
秋深し 隣は何を する人ぞ
「秋が深まり床に伏せていると、隣から生活音が聞こえてくる。あの人は何をしているのだろう」
芭蕉が病に倒れ、床に伏せていた際に詠んだ句です。
過ごしやすい秋に、身体が不自由にならない芭蕉の虚しさやもどかしさが現れています。
起きあがる 菊のほのかなり 水のあと
「大水で菊が倒れてしまったが、水が引いた後に起き上がってほのかな香りを漂わせているよ」
「水のあと」は大雨や台風の後と推測でき、すがすがしさが感じられる句です。
松尾芭蕉・冬の俳句
初雪や 水仙の葉の たわむまで
「待ちに待った初雪が降ってきた。水仙の葉っぱが、雪の重みに耐えきれず折れ曲がっている」
芭蕉庵にいたときに初雪が降り、その喜びを詠んだ句です。
芭蕉がどれだけ雪を待っていたのか、よくわかります。
葱白く 洗ひたてたる 寒さかな
「泥を落とし、水で洗ったばかりのねぎの白さに、いっそう寒さが身にしみてくる」
葱の白さが冬の寒さを引き立たせ、水の冷たさも手に伝わって来そうな俳句ですね。
季語は「葱」で季節は「冬」です。
旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる
「旅の途中で病に倒れてしまったが、夢に見るのは枯れ野を駆け巡る私の姿だ」
松尾芭蕉が生前最後に詠んだ句であるため、「辞世の句」と称されることも。
しかし、芭蕉自身は「病中吟」と前置きしているとおり、辞世の句の認識はなかったと考えられます。
まとめ
松尾芭蕉の人生は、まさに俳句のためにあったようなもの。
ことばあそびとしての連歌を芸術の域に高めて後世に伝え、「俳聖」とまで呼ばれるようになりました。
「奥の細道」は芭蕉の代表的な紀行文および俳句集で、旅の途中で詠まれた50句が記載されています。
作品は書籍にもなっていますので、手軽に芭蕉の世界に触れられますよ。
芭蕉についてより深く知りたいと思ったら、ぜひ、原文を探してみてくださいね。
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